レッツその日暮らし

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りんどうとばらが、行けと言ったから。

スーパーの店先に秋の花が並んでいるのを見て、ふと、今日でないといけない気がした。それで友人の墓参りをした。いわゆる「仏様の花」というのは似合わない気がして、その時々で、可愛らしい切り花を供えることにしている。結構長い時間、そこにいたと思う。いつしか霧雨が降ってきて、それでも帰る気にならなくて、立ち上る線香の煙を眺めていた。

その友人は、死ぬにしては随分若いうちに亡くなったので、葬儀のときには悲しいかと思ったのだけれど、そうでもなかった。葬儀なんてただの儀式だ。時間が来れば終わる。

友人との関係性は、葬儀の後だって続く。時間が来て終わるものは過去形だが、私の気持ちとしては、続いているので進行形である。

そういう友人がひとりでもいたことに感謝したいし、はたしてこれから何人できるんだろうと思う。もちろん数の問題ではなくて、そういう出会いがあって、関係性を構築するに至るまでの機会は、あとどれだけ残されているんだろう。

さらには、その機会を育てていくだけの時間も体力も、減っていくであろうことを予測するに、厳粛な気持ちがいつになくわき起こる。

総合すると、墓前での言葉は「ありがとう」に尽きるのではないだろうか。そこが先祖の墓であれ、親族であれ、友人であれ、死んでしまった人に感謝を伝えるのが、墓参の目的だと思う。宗教とか思想はとりあえず置いておいて、そういう場所とそういう機会だ。

自分が元気なうちは、たまに思い出して、この友人の墓参りをするだろう。多分先祖の墓よりも頻繁に来ている。他人なのに。