レッツその日暮らし

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自己覚知かといえばそうとも言える、かもしれないこと。

昨日髪を切ったら、今日は膨らんで膨らんで仕方がない。週明けからどうしようかと思い巡らすうちに、ひとつの記憶がよみがえった。といっても大した記憶ではない。だけど自分にとってはかなりインパクトのある言葉として、当時はショックを受けたものだ。
家の近所に、60歳代のひとり暮らしの女性がいた。気が強そうな話し方だが、基本的には明るく真っ直ぐなひとであったと記憶する。彼女は自宅周辺をいつも箒で掃き、階段を磨いていた。子どものころは「おそうじのおばちゃん」だと認識していたのであるが、ある時大人に教えられた。おそうじのおばちゃんじゃない。あそこのおうちの娘なのだよ、と。
最初は意味がわからなかった。娘が掃除してると掃除のおばちゃんじゃないの?掃除のおばちゃんというのはお仕事で掃除をしていて、多くはよそから掃除のために通ってくるもんなんだよ。
そのおばちゃんはそれこそ真剣に、自分の仕事として自宅を磨きあげていたのだけれど・・・そこんちの娘に向かって、掃除のおばちゃんとは言わないんだ。

そうして時は流れた。おばちゃんはある日、夕飯のおかずを差し入れにきた、これまた近所のひとに遺体で発見されたのだった。
やがてやって来た親戚筋の女性が言った。あの人もね、せめて家の中でも、もう一段上の格好すればいいのに。

どうやら着古した部屋着で死後に発見されて、その服がボロいという意味らしかった。おそらく彼女はケチでお金をため込んでいるというような、悪口なのだ。子どものころの私は、何ともひどい親戚だ、おばちゃんが気の毒だ、親戚なのに思いやりがない、と静かに大人に憤った。そして親戚と言えども大人というのは、そうやってひとを見下して笑う怖い人種なのだと認識したのだった。

さて翻って。自分自身についての記憶で、この出来事に似ていることがその後の青年期にあった。おしゃれで頭がよく、キュートな友人から言われた。ねえ普段どこで買い物してる?おしゃれがあまり好きじゃなくてもさ、靴かわいいの履いてみたら?すごく変わると思うけどな~。

おしゃれが嫌いなわけじゃなかった。自分みたいな人間はおしゃれするに値しないし、頑張ったとしても自分はおしゃれ部門最下位として、グループ内では嘲笑の的になるしかポジションがないのだ、と感じていた。

あれからずいぶんと月日が経つのに、どうしても忘れることができない。おそらくどちらの言葉も、言った本人に悪意はなかったし、そんなこと言ったなんて欠片も覚えちゃいないだろう。なのになぜ、執念深く覚えているのか?それはきっと自分という人間が、自分の目よりも他者の目を行動のものさしにする傾向にあり、服なんかどうでもいいと口で言いつつも、他者の目を気にして身をすくめている、不安を基礎とした性格であるからなのだろう。
なかなかいい言葉が見つからないし、オチもないけれど、今日はこのへんで。